プロフィール

  • 高崎市浜川町生まれ
  • 高崎市立長野小学校 卒業
  • 高崎市立長野中学校 卒業
  • 群馬県立高崎商業高等学校 卒業
  • 法政大学社会学部 卒業
  • 平成7年 高崎市議会議員に当選(2期)
  • 平成13年 高崎市議会副議長
  • 平成15年 群馬県議会議員に当選
  • 平成19年 群馬県議会議員に再選
  • 平成19年 自民党県連筆頭副幹事長
  • 平成20年 文教警察常任委員会
  • 平成20年 自民党高崎支部長
  • 平成21年 産経土木常任委員長
  • 平成22年 総務企画常任委員長
  • 平成23年 高崎市長選に挑戦
  • 平成27年 群馬県議会議員に復活当選
  • 群馬県聴覚障害者協会 顧問
  • 群馬県立高崎商業高等学校同窓会 副会長
  • 学校法人群馬育英学園 評議員
  • 群馬県高校野球OB連盟 会長

あつし物語

中島あつしの今日を知る人は多い。されど、その生い立ちから現在に至るまでを詳しく承知している人はそう多くないだろう。

その一.その生い立ちから県政挑戦まで・・・

類い稀な運動能力

少年剣士、アツシ  あつしは、昭和二十九年十月二十九日、高崎市浜川町で父正、母妙子の間に、長男久についで二人目の男子として出生した。正は、当時、上信電鉄に勤務する鉄道員(ポッポ屋)で、妙子とは上州富岡駅の駅員時代にめぐり逢い、所帯をもつことになった。ちなみに、妙子の実家は、富岡でも老舗のつくり酒屋「東野酒店」で、人気TV番組の水戸黄門役で有名な俳優の「東野英次郎」は叔父にあたる。

 少年時代のあつしは、誰もが認める「わんぱく小僧」だった。家の周囲はまだまだ田園地帯。遊び場にはこと欠かない絶好の環境だったので、小学生の頃は、ガキ大将として近所の子供達とともに、自然の中を走り回っていた。あつしが持ち前の運動能力を発揮するようになったのは、中学時代だった。野球のみならず剣道でも大活躍したあつしは、中体連の個人戦では高崎市大会で二年連続優勝県大会でも準優勝するなど目覚しい成果を残したのだった。
[写真]少年剣士、アツシ

高校、そして大学時代

こんなにスリムな高校時代  高校時代は、野球選手としての才能が花開く。昭和四十五年、伝統校、県立高崎商業高校へと進み、硬式野球部に入部したあつしに待っていたのは『寮生活』。朝から晩まで練習に明け暮れる毎日だったが、三年間寝食を共にしたチームメイトは、今でもあつしにとって最高の仲間となっている。そんな「高商」での素晴らしい先輩や後輩達との出会いに、あつしは本当に感謝している。この三年間の高校時代に、あつしは二度の甲子園出場を経験することになる。甲子園のあの大きなアルプススタンドの大応援団からの声援と、大観衆の前で真剣に闘ったあの時の試合は、今でも鮮明に記憶しているという。
[写真]こんなにスリムな高校時代


大学卒業後もコーチをつとめる 当時、「高商に中島あり」と称される程の名プレーヤーだったあつしに憧れ、高商野球部の門をたたく野球少年もいたという。卒業時には、東京六大学リーグの名門、法政大学野球部よりオファーがかかり、同大へ進学した。大学時代、あつしは後に巨人で活躍した江川卓や、同じく日ハムで活躍し中日のコーチを務めた高代延博などとともに練習に励んだ。
[写真]大学卒業後もコーチをつとめる

政治の道へ・・・

若かりし頃の両親との一コマ  そんなあつしが、政治に関心を持ち始めたのは、高校時代に遡る。その頃、父正は上信電鉄を退職し「北関東地産株式会社」を設立、経営にあたっていたが、「高崎北部の発展のためには、どうしても長野地区から市議が必要だ。」という周囲からの強い要請を受け、昭和四十四年に市議選挙に立候補し当選。以後六期二十四年にわたり務めることになるが、正は持ち前の政治センスと人柄で人望を集め、昭和五十七年には、市長と並び市民の代表である議長も歴任し、高崎市政に大きく貢献することになる。山本富雄農林水産大臣のイスに座り思わずにっこり。この功績に対しては、平成十二年、勲四等瑞宝章が授与された。この父の背中を見て育ったあつしは、いつしか自分も社会のために役立つ仕事に就きたいと思うようになったのだった。

 また、父の旧制高崎中学(現高崎高校)時代の先輩にもあたり、あつしには仲人親にあたる、山本富雄参議院議員との出会いも政治の道に進む大きなきっかけになったかも知れない。町議、県議、を経て、地域の実情や人情の機微を知り尽くした上で、国政の場で活躍し農水相まで務めた山本は、あつしにとって目標とするにふさわしい政治家であった。
[写真]山本富雄農林水産大臣のイスに座り思わずにっこり。

「感謝」と「感激」の市議選挙

市議選挙  ある日、突然転機が訪れる。統一地方選挙を翌年に控えた平成六年秋のことであった。父正から呼ばれ「今期限りで自分は引退する。俺がやり残した仕事は、お前がしっかりやってくれ!」と言われたあつしは、一大決意を固めることになる。父にかわり、自らが市議選に臨むことになったのだった。

 平成七年四月、あつしは三、二六九票を獲得し、第七位で見事に初当選を飾る。選挙戦は、体力と時間との戦いでもあり、初めての経験となるあつしにとって決して楽なものではなかった。しかし、妻の由美子をはじめ家族の懸命な協力、そして何よりも有難かったのは、支援してくれる人達の熱意であり、多くの人達に支えられて勝ち取った勝利であった。あつしには、この選挙は「感謝」と「感動」の連続であり、人の気持ちの大切さを知ったあつしは、選挙を通じて更に成長をしたと言っても過言ではないだろう。この人達の恩に報いるために、身を粉にして働くことを改めて誓うあつしだった。

手話通訳の導入

演壇脇に手話通訳者が入った高崎市議会の一般質問  市議となったあつしは、一期目からさまざまな課題に取り組む。地域や後援会からの要望実現にはいつもひたむきに努力をするとともに、旧態依然の議会運営の改革には積極的に挑戦。古参議員からは睨まれるものの、同期議員らと連携し着実に改善を図る。いつしか、議会や行政サイドからも評価を得ていったのだった。特記すべきは、平成七年九月、全国でも初めての試みとなった議場での手話通訳者の導入だろう。地元紙は勿論、全国紙、テレビ放送でも取り上げられ、全国の地方議会からも注目を集めた。これは、あつしの提唱で行われたものであり、聴覚に障害を持つ人々をはじめ、社会的弱者に行政や議会がもっと真摯に向き合う必要性を投げかけるものであった。
[写真]演壇脇に手話通訳者が入った高崎市議会の一般質問

副議長、動く!!

烏川へサケの放流 平成十一年四月、二度目の選挙では三、六八九票を獲得、四位で再選を果たす。二期目を迎えたあつしは、これまでの地道な活動が議会内でも認められ、平成十三年五月、若手としては異例の副議長に就任した。しかし、この副議長職が、後に大変重要な役割を担う事になるとは、この時点ではあつしを含め誰も想像できなかった。これまでに、高崎市議会では議長選をめぐり、幾度となく黒い噂が囁かれてきたが、この問題で議員一名と現職議長が逮捕されるという事態が発生・・・・・・。市民からは糾弾の声が上り、議長不在の中で議会はその対応を迫られたのだった。この時、副議長だったあつしは、市民の声を背景に議会の衿を正すべく各会派の取りまとめ役として動くことになる。かくして議会は、二度と同様の事態を引き起こさない防止策を講ずるなどの対応を取ることになったのだった。
[写真]烏川へサケの放流

二男一女の父として

地域の子供たちと  市議としての二期七年余に及ぶ活動は他にも多々あるが、これはあらためて紹介したい。あつしは議員であると同時に二男一女の父親でもある。長女佳代子をはじめ子供達が通った保育園では父兄会長、長野小学校、長野郷中学校、高崎商業高校ではPTA会長、また育英短期大学でも保護者会長を務め、多くの子供達の教育環境の改善に取り組んできた。市P連副会長としても活躍し、教育問題は学校現場だけでなく、保護者と行政が三位一体となって取り組まなければならないことを痛感し、小泉首相の説く「米百俵」の精神の如く「人造りこそ国造り」として、今後の政治活動の中でも中心的課題に位置づけるあつしであった。時には家族とともに
[写真]右上:地域の子供たちと
[写真]時には家族とともに

県政への挑戦!!

 このような歩み中、今あつしは大きな舞台への挑戦を開始した。今春の統一地方選では、「県政」というステージを目指しその一歩を踏み出したのである。高崎では、ベテランの実力派現職県議が多くその道のりは険しい。しかし、「高崎は、群馬は今のままでよいのか?」。あつしの出した結論は「否」だ。経済は悪化し、市民一人一人の暮らしまでが厳しくなっている今日、今こそ政治が変わらねばとの思いは皆感じているはず。こんな人々の声にあつしは応え、「ぐんまを変える!!高崎を変える!!」をスローガンに掲げ、そして今まで通り、「聞く・見る・言う」をモットーに、持ち前のバイタリティーとスポーツマンシップで、あつしは改革への道をひた走る。

当選